目 次

『星を追う子ども』ミニ演奏会 @キネカ大森 (9月15日)
『星を追う子ども』スタッフ座談会 @キネカ大森 (9月15日)
『星を追う子ども』トークショー&プレゼント大会 @キネカ大森 (9月3日)
『星を追う子ども』凱旋上映記念舞台挨拶 @テアトル新宿 (7月16日)
星を追う子どもスペシャルナイト Vol.4「『星を追う子ども』を論じる」@シネマサンシャイン池袋(6月23日)
星を追う子どもスペシャルナイト Vol.3「『星を追う子ども』を読む」@シネマサンシャイン池袋(6月16日)
星を追う子どもスペシャルナイト Vol.2「『星を追う子ども』を語る」@シネマサンシャイン池袋(6月9日)
『星を追う子ども』大ヒット御礼舞台挨拶 @新宿バルト96月7日)
星を追う子どもスペシャルナイト Vol.1「『星を追う子ども』を聴く」@シネマサンシャイン池袋(6月2日)
『星を追う子ども』公開記念 『秒速5センチメートル』上映&ティーチイン@キネカ大森(5月12日)

星を追う子どもスペシャルナイト Vol.3「『星を追う子ども』を読む」@シネマサンシャイン池袋

新海:雨の中お越しいただき、本当にありがとうございます。本日の司会と、この映画の監督もしました新海誠と申します。最初に伺いたいんですが、『星を追う子ども』を今日はじめてご覧いただいた方はどれくらいいらっしゃいますか?・・・ほとんどなんですね。もうひとつ、『秒速5センチメートル』をご覧いただいた方はどれくらいいらっしゃいますか・・・ほとんどですね、ありがとうございます。

今回の『星を追う子ども』という作品のアイデアを考え始めたのは3年近く前で、その頃僕は1年くらいロンドンに滞在していて、そこでこの話を書き始めたんです。滞在中にクリスチャンの友達も増えてきて、時々誘われて週末の教会に見学に行ったりしてたんですが、クリスチャンの彼らはすごく熱心に聖書を読んでいたので、ある時「聖書はあなたたちにとって、どういうものなの?」と聞いたんです。すると、「私にとってのsalvation(救済、救いの意)である」と答えが返ってきたんですね。そのsalvationという単語を聞いて、そのときロンドンで読んでいた英訳された村上春樹のある小説を思い出しました。「A Window」、日本のタイトルだと「バート・バカラックはお好き?」という短編で、「カンガルー日和」という短編集の中の一遍です(「村上春樹全作品1979~1989 5」収録の際「窓」に改題)。その中で、30代半ばの主婦と大学生の青年が手紙のやり取りをしていて、もうこれから先そのやり取りができないとなった時に、その女性が青年に向かって「あなたと手紙をやり取りすることは私にとってのsalvationでした」と言うんです。思いがけずsalvationという単語が出てきたので印象深かったのですが、ある人にとっては聖書が救いだったり、ある人にとっては手紙を返すという、そんな何でもないことが救いなんだなと思ったんです。そんなふうに記憶を辿っていくと、僕は学生の頃、クリスチャンの人が聖書を読んでそこから救いを求めるのと同じように、漫画やアニメや小説を繰り返し読んできたような気がします。
それから先、何年か経って自分がアニメーションを作る立場になった時も、登場人物たちの救いを何にするかということをずっと考え続けてきたような気がします。それは『ほしのこえ』や『雲のむこう、約束の場所』という作品では"記憶"、『秒速5センチメートル』では"風景"だったかも知れない。今回の『星を追う子ども』ではその考えがまた少し変わり、登場人物のアスナやモリサキやシンにとって何が救いであったのか、今日のトークショーではそんなお話もできればと思います。
では、ゲストをお呼びしたいと思います。大妻女子大学の教授であり、著書「深読み映画論」で『秒速5センチメートル』を見事に読み解いてもくださいました、大野真先生です。女子大の先生ということで・・・いいですね女子大(会場笑)。今日はいつもより女性比率が高いのは、きっと大野先生のおかげだと思うんですが、一言いただけますか。

大野:ただ今ご紹介に預かりました、大妻女子大学の大野真と申します。今日は雨の中お集まりいただきましてありがとうございます。よろしくお願いいたします。30分間楽しんでいっていただけるとありがたいと思います。

※以下、作品を読み解くにあたり一部ネタバレ要素を含みます。まだご鑑賞いただいてない方はご注意ください。

新海:僕が大野先生とお会いするきっかけとなったのは、先生の著書「深読み映画論」の中で『秒速5センチメートル』について書いていただいたからなんです。出版された2009年は僕は海外にいたので、帰国して『星を追う子ども』を作り始めてから読ませていただきまして、自分自身でも気付きもしなかった映画のメッセージやディティールが見事に抉り取られていて面白いなと思って、メールを出させていただきました。先生のお勤めになってる大学と僕たちの制作スタジオはすぐ近くだったのですが、『星を追う子ども』の制作が忙しくなってしまって2年間お会いする機会が持てず、制作が終わってつい先日、先生のゼミに呼んでいただいて、ようやくお会いすることができたんですよね。
早速ですが、『秒速5センチメートル』をはじめ過去作品からご覧いただいてるようなんですが、今回の作品についてはどう感じられましたか?

大野:ご他聞に漏れずと言いましょうか、一番最初はどうしてもジブリが浮かんでしまったんですが、でもパロディとも違うし、無意識に似てしまったというのともどうやら違う。新海さんの意図がどこにあったのかな?と疑問に思ったんです。最初に感想をお送りした時に、「ジブリとのニアミス」というような言葉を使ってしまって大変申し訳なかったんですが、結局私は4回観まして、次第に新海さんのやりたかったことがはっきり分かってきました。つまり「ジブリから入って、ジブリと違う場所に出る」ということ、それに納得して信じることができるようになりました。今ではすっかりアガルタの住人になってしまって、昨日もオオネの漬物を食べてきたところで。

新海:ああ、大根ですね(会場笑)。

大野:構成の妙と言いますか、その深さがただごとではないなと思いました。特にフィニス・テラの崖の上にアスナとシンが立ったところからエンディングに至るまでは、本当に完璧だなと思いましたね。持ち上げるつもりではないんですけれども、それが正直な感想です。

新海:先生が仰ったジブリというのは、僕も大きな影響を受けていますし、日本のアニメーションを作っている全員がやっぱり巨大な影響を受けていて、逃れようと思ってもなかなか逃れ得ないものだと思うんです。色んな気持ちがあったのですが、ひとつには、ジブリがここまで人々のあいだに広がってしまうと日本でのディズニーみたいな存在になって、もう環境のようなものなんじゃないかという気がします。例えば日本のアニメーションというものは、テレビアニメで顕著ですが、キャラクターデザインが特徴的ですよね。目の形や髪型などのパーツの組み合わせで考えることができて、ピンク色の髪をしている子が大体主人公であったり、眼鏡をかけた委員長的なキャラクターであったりと、東浩紀さんが「動物化するポストモダン」という本の中で指摘したように、組み合わせでできあがっているんです。で、僕たちのような世代にとっては、ジブリというのはそのキャラクターデザインと同じように、組み合わせの対象でもあると思うんです。ただそれはその先までさかのぼることもできて、特に宮崎駿さんの作品というのは、神話の形に大変近いんですね。海外でストーリーを考えていたということもあるのですが、僕も今回の作品を作るにあたってある程度神話的な形、普遍的な形を持った物語にしたいと思ってました。
もうひとつは、行って戻る話にしたかったんです。"行きて帰る物語"というのは無数にあるんですが、神話のひとつの原型なんですね。ロンドンの古本屋さんで大塚英志さんの「人身御供論」という本を手取って読んだのですが、「日本の昔話の中にある普遍的な色んなパーツを読み解いて現代の漫画まで繋げていき、人が大人になるために昔から物語の中でどういうパーツが使われてきたか」というのを解説している本だったんです。同時に連想したのは、ロシアのウラジミール・プロップの「昔話の形態学」という有名な本があるんですが、それは「世界中にある神話をいくつもの要素に分解して、その組み合わせで物語はできている」ということが書かれた本です。まさに、そういう普遍的なパーツや出来事があって、その組み合わせで僕たちは今でも物語を作っているということを、ある程度自覚にやったのが今回の作品ではありました。

大野:その通りだと思うんです。今回のアガルタにしましても、行って戻ってくるというふうに仰いましたが、"神話の原型"のような根っこにある形として、冥府や迷宮の底へ降りていき、そこから戻ってくる、死と再生のパターンというのがありますよね。今回もそれを踏まえていると思いました。ただ、冥府に行って一度死んでそして甦ってきた時に、降りていく前と同じでただ帰ってきただけではしょうがないので、そこにどういうメッセージを乗せるかが制作者それぞれの違いなんでしょうね。
今回アスナが一体どういう形で戻ってきたか、アガルタの最深部で何が起きたのかというと、やはりそれはアスナが自分自身の"根の孤独"、"寂しさの核"みたいなものに触れることができた。つまり、「私、ただ寂しかったんだ」というセリフがありましたが、それを知ったことが彼女が戻ってくるひとつの要因になったと思うんですね。それは行く前とは違うところであって、ひとつの救いではないかなと思うんです。

新海:先生が仰るようにアガルタに行くというのは、アスナにとっては死の世界に降りていくことにもなるんですね。劇中でモリサキが古事記の話をしますが、あれは黄泉の国に行く話だし、ギリシア神話だとオルフェウスがエウリュディケーに会いに冥府に行くという話もありますよね。アスナは死の世界に行くからこそ、狭間の海を落ちていく時に一時的に死んだような状態なるんです。ですから目覚める前に、「私生まれなきゃ」と、もう一度生まれ変わるようなシーンが入っている。夷族に首を絞められて一度力尽きてしまったところをシンに助けられ、シュンくんは死んだんだということを受け入れることができて泣くとか、ケツァルトルに飲み込まれてフィニス・テラの底まで行くとか、ひとつ境界を越えるごとに彼女は死んでしまっているような、そういうのは形として意識していたんです。
ただ、アスナが追い詰められた末に「寂しかったんだ」と言うのは神話の構造みたいなところから導きだされたものではなくて、僕が言わせたいことを考えていった時にあの言葉しか出てこなかったんですね。でもそこが物足りない方もいらっしゃると思うんです。「あれだけ大きな舞台装置を設定しておいて、ヒロインの女の子の気付きが「私ただ寂しかったんだ」だけでいいのか、あそこで力が抜けてしまった」という意見も時々聞くんですよ。でも「僕はあれが言いたかったんだよな」と思うしかないんですが(笑)。

大野:自分の中の"孤独の核"に触れるということはたぶん、「私は今ここに生きてる」という実感を得ることでもあり、同時に他人の中にもそういったものが存在するということを知ることだと思うんですよ。だとすれば、アスナはラジオを聴きながらずっとここじゃないどこか違う場所に行きたがっていましたが、でももうその必要もないんじゃないかと。他者の中にも孤独の根があるということが分かれば、それを響き合わせることができる、つまりそれが愛と呼ばれるものである。それが分かったからこそ、アスナを犠牲にしてまで奥さんを取り戻そうとしたモリサキを、彼女は目覚めてから抱きしめて、赦すんですね。で、お母さんの元に戻っていけるんです。それは非常に大きな成長であるなと私は思いまして、最後に幕切れのところで「いってきます」って言って笑いますよね。あの顔が好きでね、ちょっと萌えました(会場笑)。

新海:制服着てますしね(笑)。それぞれの人間の孤独の核みたいなものが響き合ってそれこそが愛だ、と仰っていただけるのは、なるほどなと思います。シュンという少年は星空に憧れて死を賭して地上に出るんですが、アガルタを出る前にフィニス・テラの淵で唄を歌うんです。その唄が映画冒頭のアスナのラジオから流れてきて、シュンは自分の存在を託した唄が誰かに届いているという、手ごたえがきっとあったんですね。だからこそアスナに会った時に「自分の唄が届いていたのはこの子だったんだ」というふうに思って、「会いたい人に会えた」と言う。シュンの歌っていた唄というのは、先生のお言葉を借りればシュンの孤独の核みたいなもので、それがアスナの抱えていた孤独の核と響き合ったと考えることができますね。

大野:そういうことだと思います。

新海:さっき出たジブリ作品の話が分かりやすかったのでもう少し話させていただきます。先日大野先生のゼミに呼んでいただいてそこで学生さんたちと色んなお話をしたのですが、「シンが馬に乗って自分の村を出発する時に、髪の毛を切るシーンが『もののけ姫』のアシタカに似ている、それにはどういう意図があったのか」と聞かれたんですね。『もののけ姫』は好きで何度も観てるから覚えてないわけはないんだけど、実際絵コンテを描いている時は、意識していませんでした。ただそのモチーフの意図を説明すると、シンはアスナと出会った時に、「シュンくん、シュンくん」と、何度もお兄さんと間違って呼ばれ、「俺はシュンじゃない、シンだ」と言うんです。それで、どうしても兄と同じように見られてしまう気持ちを切り捨てたくて、髪の毛を切ったっていうこともあるんでしょうし、やっぱり何か大きなものに向かう時に髪の毛を切るというのは、昔から普遍的にある仕草だと思うんです。古いかも知れないけど、女性も失恋すると髪を切るって言いますよね。それはまさに神話的なモチーフで繰り返し使われてきたことでもありますが、だからこそ、たぶん宮崎駿さんも『もののけ姫』の中であのようなモチーフを使われていて、僕もそこに接近してしまったんだと思います。

大野:今作のクライマックスのシーンで、シンがアスナを取り戻そうとクラヴィスに剣を振りかざし、「生きてるものが大事だ」と言いますよね。そのセリフについて新海さんがパンフレットの中で「生きているものの方が大事」というのは新海さんの主張でも作品の主張でもなく、あの場でのシンの心情として叫んだ言葉、とあったんです。生きているものより死んでしまった妻に執着するモリサキの魂も救いたかった、というふうに仰っていて。

新海:そうですね。死者が大事だと思い続けている人間の気持ちも否定するような描き方は、どうしてもうまくできないと思っていたので、確かにそのような思いで作った作品です。

大野:アスナにもシンにもモリサキにも、それぞれに救いを与えようという作者の意図が非常によく分かりました。
先日、新海さんが私の研究室に来てくださって話をしている時に、新海さんは宮崎吾郎さんが気になると仰ってまして、意外に思ったのですが。

新海:そうですね。気になるというのは、ジブリという日本の環境にまでなってしまったような巨大なアニメーションスタジオ、偉大な父を持ち、その中で映画を作る時に父殺しのモチーフを使ったり、混乱しているキャラクターを出したりして、彼の問題意識やイデオロギーみたいなものをまっすぐ出しているところです。彼の置かれた環境も含めて、そういう意味ですごく気になる存在です。ですから次の『コクリコ坂』もすごく楽しみです。まだ観ていないので分かりませんが、原作を読む限りでは『コクリコ坂』も『耳をすませば』のような、男女が結ばれる話であると思うんですね。
前のイベント(キネカ大森ティーチイン)でも話したのですが、僕は男女が運命的に結ばれる話ではなく、結ばれるかも知れないと一瞬思えた男女が結ばれずにお互いをなくしてしまって、その先どうやって生きていけばいいのだろう、というのを作品を通じて考えたいというのがずっとあるんです。それを"ロマンチックラブの否定"という言い方をしたんですが、そのお話をした時に先生が「それを否定と言ってしまっていいのか」というふうに仰ってたんですね。それはどういうご意図だったんでしょう。

大野:ロマンチックラブ、宿命的な結ばれというふうに仰いましたが、それは何も永久に結ばれ続けていなくてもいいわけで、一瞬でもお互いが完璧な結ばれ方をした瞬間があれば、それは決して持続する必要はないと思うんですね。つまり瞬間即永遠という考え方。妻もいる身なので言いづらいことなんですけど(会場笑)。逆に所有が永続しない方こそロマンチックの定義かな、と思います。つまり、手の届かぬものに手を伸ばす、具体的には"星"と言ってもいいと思うのですが、それを追い求める行為自体がロマンチックなことで、"ロマンチックラブの否定"と言ってしまうと、それまでも否定しちゃうような気がするんです。だからむしろ、「宿命的な愛によって永久に結ばれ続けなくてもいいじゃないか」という否定自体が非常にロマンチックなんじゃないかという気がします。

新海:僕が"ロマンチックラブの否定"と言っていること自体が、ロマンチックなことを言っていると(笑)。

大野:だから私は、新海さん実は真性ロマンチストだと思うんですよ。だって『秒速』、『雲のむこう』、『ほしのこえ』を観れば分かるじゃないですか、どう観たってあれはロマンチストじゃなきゃ作れない。ただ、普通のロマンチストというのは、形を持たないでどこかに飛んでいっちゃうんですよね。だけど新海さんは、その内部のマグマみたいなものを非常に冷ややかな器に盛って、それをすっと差し出す。ただのロマンチストではなく、そういう才能がある人だなと思います。

新海:ありがとうございます。そういえば前に大学に伺った時に、先生が「『秒速』は抒情詩であった」と仰ってたんですね。僕も『秒速』は詩のような作品であったと思うんですが、先日久しぶりに『雲のむこう』を観返してみたら、物語を描いたつもりがやっぱり詩のようなものになっていて、なので今回は明確に違うものを作ろうと思ったんです。

大野:三島由紀夫が「金閣寺」を書いた直後に、小林秀雄と「美のかたち」という題名で対談をしているのですが、そこで小林が恐ろしいことを言ってるんですね。「あなたの今度の作品はとても美しい。ただ、あれは抒情詩だ。ラスコーリニコフは殺したところから物語が始まるけど、あなたの作品は燃やしたところまでだ」と、ドストエフスキーの「罪と罰」と比較しつつ言ってるんです。金閣寺を燃やしてから先に物語が始まるのであって、そこまではつまりモノローグ、抒情詩だと、だからこそ美しいんだということを言っていたんですね。今回の作品を観てそれを思い出しました。
つまり『秒速』までの作品というのは、非常に美しい抒情詩だったんだと思います。ただ、『秒速』の一番最後にアカリと思しき女性が踏み切りのところで、タカキとすれ違って行ってしまいましたよね。もし振り向いていれば、あそこから全然違う新しい物語が始まる。アカリはすでに結婚しているし、ドロドロぐちゃぐちゃの話がまた新たに始まる(笑)。

新海:(笑)。確かに他者と向き合うということが起きて、物語にはなっていきますよね。

大野:そうなんです。他者、それから社会といったものが入り込んでくるのが、小説であり物語。だから新海さんは今回それをやったんだろうなというふうに思いました。

新海:ありがとうございます。今回、『秒速』のファンの方からは「『秒速』みたいなものをまた作って欲しい」っていうお言葉をたくさんいただくのですが、そういうふうにご説明いただくと違う方向に踏み出す、違う方向のものをやるということが間違いではないと思えて、慰められます(笑)。

大野:私が研究しているホフマンスタールという世紀末ウィーンの作家や、三島やランボオもそうですが、みな十代で抒情詩を捨てています。ホフマンスタールは、人間とのもっと強い関係を求めて「薔薇の騎士」などのオペラを書いたり、小説や演劇を書いたりしました。しかし彼が二十歳になった時に一番最初にやったことは、古代ギリシア悲劇の翻案なんです。古典的名作を基にしてそれを翻案していくという、所謂本歌取りです。今回新海さんはいわばジブリを本歌取りしたと思うんです。

新海:アニメーションの世界にとってジブリが古典のような存在であるという意味では、そうとも言えるかも知れませんね。

大野:最初に申し上げた、「ジブリから入ってジブリとは別のところに出る」という、そこに繋がるかなと思います。

新海:ありがとうございます。『星を追う子ども』はこれから東アジアを中心に海外で大きく公開されていく作品です。先生が読み解いてくださったような意図が、広く皆さんに通じていって欲しいと思うので、今日はとても励まされました。本日は長い時間どうもありがとうございました。

(2011年6月16日)

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