目 次

『星を追う子ども』ミニ演奏会 @キネカ大森 (9月15日)
『星を追う子ども』スタッフ座談会 @キネカ大森 (9月15日)
『星を追う子ども』トークショー&プレゼント大会 @キネカ大森 (9月3日)
『星を追う子ども』凱旋上映記念舞台挨拶 @テアトル新宿 (7月16日)
星を追う子どもスペシャルナイト Vol.4「『星を追う子ども』を論じる」@シネマサンシャイン池袋(6月23日)
星を追う子どもスペシャルナイト Vol.3「『星を追う子ども』を読む」@シネマサンシャイン池袋(6月16日)
星を追う子どもスペシャルナイト Vol.2「『星を追う子ども』を語る」@シネマサンシャイン池袋(6月9日)
『星を追う子ども』大ヒット御礼舞台挨拶 @新宿バルト96月7日)
星を追う子どもスペシャルナイト Vol.1「『星を追う子ども』を聴く」@シネマサンシャイン池袋(6月2日)
『星を追う子ども』公開記念 『秒速5センチメートル』上映&ティーチイン@キネカ大森(5月12日)

『星を追う子ども』公開記念 『秒速5センチメートル』上映&ティーチイン@キネカ大森(5月12日)

MC:それでは新海監督をお呼びいたします。4年ぶりの『秒速』の上映、監督いかがでしたか?

新海:『秒速5センチメートル』は、もう4年も前の作品で、こちらの劇場でも上映させていただいたのですが、僕にとっては特別な作品だったんですね。なぜ特別なのかというのはこのあとお話しさせていただきます。1週間前に僕たちの最新作『星を追う子ども』が公開になり、池袋と新宿で舞台挨拶をしてきたのですが、その時にちょうど、4年前にこの劇場でお世話になったスタッフの方がサイン会に来てくださり、「うちのキネカ大森にも来てください」と言われ、それで今日の舞台挨拶とティーチインが実現しました。そんなふうに、人と人のつながりがこの作品を中心につながっているということを実感します。


MC:改めて、監督にとって『秒速』はどんな作品だったんですかね?

新海:実は、ちょっと愛憎半ばの作品なんですね。というのは、新作『星を追う子ども』の制作を始めてから、『秒速』というのが僕にとって大きな作品だったんだなと感じるようになりました。それ以前にも、アニメは普段観ないような方、例えば芸能人の方だったり、若い学生さん達などにお会いすると、『秒速5センチメートル』を知っていて、「すごく好きなんですよ」と言われる機会がとても多かったんですね。海外に行っても、よく声をかけられました。短い短編集の作品でしたし、そんなにたくさんの方に長い間愛してもらえるような作品のつもり作っていたわけでもなくて、ちょっとした息抜きくらいのつもりで最初は始めた作品だったんです。1週間前に『星を追う子ども』が公開されたのですが、「『秒速』と全然違うじゃないですか!」と言われることがありまして。ま、秒速原理主義者みたいな方が(会場笑)、世の中には結構いるんだなということも分かったりして。そういう意味でも、愛憎両方ある作品です。
ただ、『秒速』という作品は、今ご覧いただいてもお感じになったかもしれませんが、ものすごい時代的な作品だったと思います。何も物語の中で出来事が起こらないんですよね。変わらない堅固な日常があって、それもすごい日本的な日常生活があって、例えば敵が現れたりするわけでもなく、でもその中で生きている人の気持ちは些細なことで大きな起伏があって、その起伏を拡大してアニメーションの画面で美しく描くというタイプの作品だったんですね。当時の僕はそういう作品が欲しかったですし、自分の変わらない日常を愛おしく肯定してくれる作品が自分でも観たかった。皆さんが好きでいてくださり、ファンが増えてきてくれたというのは、“自分たちの生きているこの世界、何もないけど、でもきれいだよね”と言ってくれる作品を、皆さんも求めていたのかなと、今考えると思います。それは4年前の気持ちだったんですよね。そのあとどういう作品を作ろうかと考え、今回の『星を追う子ども』という作品を作りましたが、その時は僕はもうそういう気持ちとは違っていたんですよ。

『秒速5センチメートル』

MC:実はこの『秒速5センチメートル』って、ご自身で小説も書かれているんですよね。

新海:そうですね。この作品を作り終わったあと、「小説を書きませんか」という話をいただいていて、「ダ・ヴィンチ」で連載して、小説を出したんですね。映画化の時点で、全部物語の世界を分かっているつもりではあったんだけど、小説を自分自身で書いたことによって、でもそれ以上に自分自身でこういう意味があって、こういう映像を作ったんだと気付いた部分はあります。例えば、2羽の鳥が飛んでいるカットがありますが、ああいうのって反射神経みたいなもので絵コンテ描いて入れているんですね。どういう意味があるのかあんまり考えずに、ここでこの曲が流れるからこの映像だと気持ちいいでしょう、という感じで、割と勘で描いていることが多いんです。けれど、あとから繋がった作品を改めて冷静な目で見てみると、ここの鳥はタカキの気持ちを意味していたんだとか、あとから見えてくることが多かったんですね。それで小説を書いていて、改めてそれを文章化して、「あーなるほどな」と思うことも多かったですね。つい最近まで講談社の「アフタヌーン」で、清家雪子先生が描いてくださった漫画の連載もされていて、いま全2巻で発売されていますので、ご興味のある方は見て欲しいです。僕が書いた小説とは違う、きちんと登場人物の女性ひとりひとりの話を終わらせてくれるタイプの漫画です。そして今月末もう一度小説が出るんですよ。僕が書くんじゃなく、今度は加納新太さんという、今まで僕の『雲のむこう』と『ほしのこえ』を小説化してくださった方が書いてくれた小説です。4年前の小説でしかも原作者が小説を書いているというのに、何でそんなことをやってくださるのか、すごくうれしいんですけど、そんなふうに今でも少しずつ広がっている作品なんですね。そういうことを考えるとうれしいんだけど、今上映している『星を追う子ども』のことを考えると、『星を追う子ども』も『秒速』みたいな存在に果たしてなれるのかな、というふうに逆に心配しちゃったりもしますね。

小説・秒速5センチメートル
著・新海誠
漫画 秒速5センチメートル
漫画・清家雪子
秒速5センチメートル One More Side
著・加納新太

      

MC:『秒速5センチメートル』を作られた時は、そこまで色々な広がりをみせるというのは想定されていなかったのですか?

新海:してなかったですね。でも、すごく悩んだ覚えはあります。第一話と第二話は割とすんなりではないですけど、思った通りの形になったんですね。でも第三話をどうやって形をつけようかというのがすごく迷いました。PV的な形で、最後曲が全部引き取ってしまう形になってますよね。やりたかったことは、このあとの話とも絡むんですが、まずひとつ、物語として全ての世界を閉じてしまいたくはなかったんですね。何かしら現実世界にフィードバックして、「ここから先は僕の問題だ」、もしくは、「ここから先は見てくださった方それぞれの問題だ」と、現実にフィードバックして、何かものを考える材料になるような作品にしたかったというのがあったんです。それでも1本映像作品を観たというカタルシスが欲しかったから、そこで悩んで山崎まさよしさんの曲で終わらせるという形にしました。
でも映画としては相当いびつな形ですから、それで果たしていいのだろうかと思ったりはしました。第一話、第二話で割とたっぷり、20分以上の尺を使って描いていて、第三話は一番尺が短いんですけど、歌で引き取ってもらうことで、僕たちの実際の時間感覚、小学生の時は1日がすごく長くて、それがだんだん短くなってきて、時間の感覚が大人になるにつれ圧縮されていく、その感覚を『秒速』の第三話のような語り方をすれば込められるのではないかと思ってやったんですが、いびつな形、いびつな作品だとは思うんですよ。だからこそ、たくさんの人に今でも愛していただいているとも思います。

第1話「桜花抄」 第2話「コスモナウト」 第3話「秒速5センチメートル」

MC:他に例がない作品で、海外からも「どうして第三話はこんなに短いんだ」と仰る方もいますが、たぶん『秒速5センチメートル』っていうのはこういう形でしかありえないと監督が思われて作られたと。

新海:そうですね。第三話のコンテを描いている時までは相当悩んでいましたけど、出来あがってみると、こういう形でしかなかった作品だろうなと思います。その次に何作ろうかと思った時も、もう『秒速』的な作品は少なくとも今は作らなくてもいいよな、という気持ちだったんですよね。『星を追う子ども』を作り始めたのは2年前からですけど、その時点で、もうガラッと変えようと。いくつも理由があるんですけど、ひとつには『秒速』的な日常を美しく描くタイプの作品って、その後のアニメーション作品の中いくつかに受け継がれていった感覚があったんですね。『秒速』を作った時も、なかったわけではないけど、割と独自性があったかも知れないと思ってます。『秒速』を作り終わって2年経ったあとでは、お客さんの選択肢が増えているのではないか、僕が『秒速』的な作品を作らなくても、皆さんが観たいタイプのアニメーションを探せばあるんじゃないかという気持ちがありました。であるならば、世の中に実はあまりないタイプの作品を作りたいな、という気持ちがありました。
今回の『星を追う子ども』は「ちょっとジブリっぽいよね」と言われることがすごくたくさんあるのですが、でも正にジブリ的なものが実は世の中にあまりないんじゃないかという気持ちがあったんですね。例えば“少年少女の冒険もの”って、毎年毎年夏に『ラピュタ』なりがテレビでやりますから、世の中に良質なものがあふれているような気になっていますけど、でもあれってもう僕が子どもの頃の、25年以上前の作品で、それ以降アップデートされていない感覚が僕にはあったんです。ジブリが日本のアニメーションの中心にあって、それから距離を置いてテレビアニメーション的なものが取り囲んでいる感覚があって、中心にいるジブリに近づいていっている作品がないような気持ちがしました。であるならば、『秒速』的な作品は1回作ったわけだから、次は世の中にあるようなつもりになっているけど、実はもう20年以上もアップデートされていない“少年少女の冒険もの”というものを、入りやすい絵柄で、ジブリと間違えてもらってもいいかなくらいの気持ちで、もし間違えてもらえるのならばそれは逆に光栄なことですし、・・・間違えられませんけど(笑)。そういうタイプの作品というものを1回作ってみたいと。見た目がジブリ的なテイストであって、入り口もジブリっぽいんだけど、2時間観て劇場出てきたら、「やっぱりこれは違うものなんだ、今のメッセージの込められた作品なんだ」というものを作りたいと思ったんですよね。それはやっぱり『秒速』が前にあったから、今回の『星を追う子ども』という作品があるんだと思います。


MC:『秒速5センチメートル』を作ったうえで、『星を追う子ども』というものが生まれたと。

新海:そうですね。皆さんも普段の生活で「自分がこの仕事をやっていてどういう社会的意義があるのだろう」と悩まざるを得ない時があると思うんですけど、僕たちもエンターテイメントを作っているとはいえ、実はそれなりにそういうことを悩みながらやっていたりするんですね。『秒速』の時も、スタッフ皆の青春を1年とか2年全部費やして作ってもらうわけだから、お金もかかるし、やっぱり社会の中にはまるものを作りたくて、ああいうタイプの作品を作りましたし、今やっている『星を追う子ども』についても2年前に思ったのは同じことでした。今やるべき価値のあるものを作りたいと思ったから作ったんですよね。
ただそれをご覧いただいて、どういう感想を持っていただくかは、こっちが込めた思惑とは違うものになっちゃうこともままあります。お客さんの気持ちの動き方はコントロールはできないので、作り始める前に世の中の空気のようなものは感じながら作り始めてはいますが、どういう結果が出てくるかというのはこれからの話ですよね。

『星を追う子ども』

 

MC:『秒速5センチメートル』の話に戻りますが、制作面に関して色々うかがいます。新海さんの作品は一般的に映像が美しいと言われるのですが、他のアニメーションとの作り方の違いなどはあったりするのですか?

新海:『秒速5センチメートル』に関しては明確に他のアニメーションと違うと思いますし、言ってしまえば、僕たちの最新作の『星追い』とも違う作り方をしています。ご覧いただいてお分かりになったかも知れませんが、全編基本的にロケハンをしてるんですね。実在の場所を舞台にしていて、場合によっては、種子島なんか1ヶ月行ったりしましたし、何千枚も写真を撮って、物語を組み立てていきました。写真をもとに絵を起こしているカットなどもありますが、どんな場所にもカメラを置けるわけではありませんから、半分くらい通常のアニメーションの紙に描いて、それをデジタルで美術にしていくという工程を経てるんです。でも、それも写真と差が出ないくらいまでの、写真ベースの美術と差が出ないくらいの密度に仕上げることが大切でしたし、日常の風景しか出てこない作品ですから、1カット1カット、カットが切り替わるたびに、ハッとさせられるような、こんな風に見ればこんな景色がきれいに見えるんだということを、1カットずつ提案するくらいの気持ちで作り込んでいった作品なんですよ。
キャラクターに関しても、ちょっと突っ込んだ話になりますが、キャラクターを描く工程は、原画があって、動画があって、仕上げがあって、原画さんが描いたキーフレームという正面を向いた顔の絵、横を向いた顔の絵というのを、動画さんが少しずつ動いているように間を何枚か割って描くわけですが、その割る過程のやり方も、ちょっと『秒速』は他の作品と違ったやり方をしているんですね。絵がないと分かりにくいんですけど、通常アニメの動画って、線の強弱がない均一な、鉛筆でひいているというのをあんまり感じさせないような絵に動画でしてもらうんです。けれどそういうことをせずに、原画の線のかすれとか、原画の線の途切れを、動画でも再現してもらって全て原画に見えるような動画の割り方にして、塗る時もフォトショップで1枚1枚イラストのように塗っていって仕上げた作品なんですね。だから大変手間がかかりましたし、もう二度とやりたくない絵作りの仕方です(笑)。やっぱり『秒速』の時しかできなかった画面の作り方をしているので、それがきっと他の作品と違うよねと思ってもらえるんだと思います。

『秒速5センチメートル』で撮影されたロケハン写真

 

MC:先ほどもちょっと触れられていましたが、物語に関して、『秒速5センチメートル』の前に『雲のむこう、約束の場所』という長編の作品がありました。『雲のむこう、約束の場所』にはSF要素が入っていましたが、『秒速』では、この日常にSF要素を全く入れないという、そのこだわりみたいなものを物語として選んだところはありますか?

新海:『ほしのこえ』から始めて、『雲のむこう、約束の場所』、『秒速』になっていく過程で、だんだん皆様に見ていただく機会、買っていただく機会が増えてきて、ある程度知ってもらえるようになったから、『秒速』みたいな地味な作品を作れたというのも、ひとつの理由としてあります。少しずれちゃうかも知れませんが、『ほしのこえ』、『雲のむこう』、『秒速5センチメートル』って、ずっと同じテーマを作品の中で考え続けてきたんですね。今までも何となく喪失云々みたいな言い方で、お茶を濁して言ってきましたけど、実ははっきりとやりたいことがひとつあって、それは“ロマンチックラブ”を否定する作品を作りたいとずっと思っていたんですね。どういうことかと言いますと、“ロマンチックラブ”というのは社会学の言葉で、誰か一人の決まった運命の相手と、人生でめぐり会ってその人と恋をして結婚して一生幸せに過ごすっていう、社会学のイデオロギーなんです。それって、近代家族の構成とも相性がいいし、アニメや漫画の中でも繰り返し用いられるモチーフで、「たった一人の相手がどこかにいるに違いない」という話ってロマンチックでいいじゃないですか。場合によっては、人生を超えて生まれ変わった次の世代で前世の恋人とめぐり会うとかね、そういうものってアニメーションや漫画の中であふれていて、それはそれで僕も好きなモチーフなんですけど、でも現実世界はもう少し複雑で、場合によっては残酷で豊かなものであると思うんですよね。必ずしも“ロマンチックラブ”の成就だけが人生の幸せではないと。それをアニメーションでまっすぐ描くようなタイプの作品を作りたいと考えていたんですよ。
ですから『ほしのこえ』でもノボルとミカコは結ばれないし、『雲のむこう』でもサユリとヒロキは結ばれない、『秒速』でもタカキとアカリは結ばれないんですね。でも、結ばれないんだけど、だから不幸ということではなく、「“ロマンチックラブ”らしきものをつかみかけた彼らだけど、それを手に入れることはできなかったけれども、でもその先に出て歩いて行こう」という作品をずっと作りたいと思っていて、ずっとそれを目標にやってきたんです。でも作品を出すと、さっきちょっと言ったことともつながりますが、お客様がどういう風に解釈するかはこちらがコントロールできることではなくて、例えば『秒速』なんかは僕がこの4年間で感じたのは、逆に「“ロマンチックラブ”は素晴らしいものなんだ」というふうに言っている作品、ととらえられる機会も半分くらいあったんじゃないかと思ったんですよ。それはそれでいいと思っているんですけど。

『ほしのこえ』 『雲のむこう、約束の場所』

MC:この作品を観て、幼馴染に連絡をしてご結婚されたという方もいらっしゃいましたよね。

新海:いらっしゃいましたね。それは思いがけないサイドエフェクトだったんですよ、僕にとっては。この作品を観ることで「別れたあの人に連絡して一緒にならなくては」というのとは逆のことを言っていた作品のつもりだったから。でもそれは結果として幸せな別の結果を生んだから、映画ってこんな風に誤読されながらも色々な結果を人々に及ぼしていくんだなと、つくづくこの何年かで感じていますね。
“ロマンチックラブ”を否定する作品作りというのは、それだけを言ってしまうとあんまり耳触りも良くないですし(笑)、「そんなの悲しいじゃないですか」という感想もいただくので、今まで言わないようにして「喪失を乗り越える」という言い方にしてきました。ですが4年経ってまた上映していただけるということだったので、こういうお話もできればと思いました。

MC:会場にいる方からもご質問をいただければと思うのですが。

質問A:『雲のむこう』で3人が集まって「どこまで行くの?」と聞いているシーンがあるのですが、そこで一瞬だけヒロインの方が「北海道」って言うシーンがあると思うんですよ。それまでナレーションでは「北海道」という言葉は出てきても、主人公なりが「北海道」と直接言っているシーンは出てこないので、それがすごい気になっているのですが。

新海:それ僕も何となく覚えていて、コンテを描いた時にここで言わせる意味みたいなものを、今お話ししていて思い出してたんですが、僕『雲のむこう』怖くて何年も観れていないんですね。『ほしのこえ』もそうなんですけど。『秒速』はギリギリ観返せるんですけど。好きな方には申し訳ないんですけど、僕も好きな作品ではあるんだけど、でも観返すのが怖くて観れていなくて・・・すみません、忘れてしまいました(会場笑)。小説などを読んでいただくと何か書いてあるかも知れないですけど・・・すみません。

質問B:先ほど鳥の飛ぶシーンを何となく描かれたと話されていたのですが、作品を観ていると、人物を下からあおって描くシーンだったりとか、普通に考えると描きづらいようなカットが結構あると思うんです。絵コンテを描く時に、何となくこういう風にすれば見栄えがいいだろうとか、気持ちいいだろうとかっていう作り方をされるのか、あるいは画面の持つ映像効果みたいなものをきちんと計算されて描いているのですか?

新海:一応計算はしているつもりです。例えば基本的なことですけどカメラが人物にグッと寄って撮れば、画面にはその人物の心情みたいなものがより濃く出るし、離れて撮れば客観的なシーン描写になると思います。そういう理屈付けは自分の中ではカメラの位置や画角に関してはやってはいるんですけど、ただ全て意識的にできているかというと、あとから考えるとこれは勘でやっていたなあというのがあったりして、そこは混在しちゃってますね。

『雲のむこう、約束の場所』 『秒速5センチメートル』

質問C:カテゴリーとして『秒速5センチメートル』は恋愛ものだと思うのですが、今後、新しく恋愛ものを作られるつもりはありますか?

新海:『星を追う子ども』にも恋愛の要素は含まれているんですね。さっき話した“ロマンチックラブ”云々のテーマも引き継がれています。次に作る作品も恋愛が全く関係ない作品になることはないと思います。ただ『秒速』のように恋愛以外に何もないという作品になるかというと、まだちょっと分からないですね。次何を作るかというのは頭の中でグルグル回っているんですけど・・・はっきりしたお答えができずに申し訳ありません。

質問D:『秒速5センチメートル』をはじめて観た時にすごいインパクトがありました。スピードの単位が秒速でセンチメートルって聞いたことがなくて、タイトルを見て「何だろうこれ」と思って観てみたら、桜の花びらが落ちる速度のことで。それを見てすごいなと思ったんですが、どうしたら桜の落ちるスピードをモチーフにできたのか、何がキッカケなのかなと。

新海:キッカケはお客様からいただいたメールだったんですね。10年前にこういう仕事を始めてからメールアドレスをずっとオープンにしていて、時々お客さんが観た感想を送って下さるんです。その中で、ある女性の方が「新海さん知っていますか、桜の花びらの落ちるスピードは秒速5センチメートルなんですよ」と言ってくださったのが、この作品の表題作のキッカケでした。何か格好いいですよね、光のスピードとかって秒速使ったりするじゃないですか。めったに使わない単位ではあるんですけど、なるほど世の中にはそういう単位があるんだなということを改めて思って、その方にメールで「次の作品のタイトルで使わせていただいていいですか」とお断りをして使わせていただきました。
ただ、実際の桜の花の落ちるスピードはもう少し速いと思うんですよ。もしかしたら10センチ、50センチあるのかも知れません、それを承知の上で作ったんですけど。でもタカキにとってアカリの言ったことが本当なのか嘘なのかは全く関係なくて、彼女が語った言葉だったということがたぶん全てなんですよね。なので、そういうニュアンスを込めることも含めて、正しいのか正しくないのか分からない『秒速5センチメートル』という不思議なタイトルにしました。

質問E:ひとつずっと思っていたことがあって、『雲のむこう』も『秒速』も電車をよく使うシーンがあって新作にも電車が登場するシーンがあるんですが、電車ってものに思い入れがあるのか、モチーフとして使っているのか教えてください。

新海:両方だと思います。思い入れはあるんですね。僕の高校が田舎にあって電車で40分くらい毎日乗って朝晩通っていたんですが、田舎だったので電車の空間が親密な感じで指定席みたいになっていて皆座る場所が決まってるんですよ。電車の中でテスト勉強もしたし、お弁当も食べていたし、好きな子に出会ったり振られたり、みんな同じものの中に乗っていて同じ場所に移動していくっていう好きな空間なので、電車を使っているっていうのがひとつ。
あとはさっきの鳥の話みたいな感じで意味を込めやすいですよね。電車って踏み切りで分かたれていて、こちら側と向こう側があって空間が分断されてしまっていて、電車がいなくなればその空間がつながったりもするし、使い勝手のよさもあって『ほしのこえ』からずっと使っています。

『ほしのこえ』 『雲のむこう、約束の場所』

質問F:『雲のむこう』を観て思ったのですが、パイロット版トレーラーと完成作品とで映像の印象が異なるのは、どういったことがあってこうなったみたいなエピソードを交えてお教えください。

新海:トレーラーを作っていた時におおまかなストーリーラインっていうのはあったんですけど、90分の作品にまとめようと思った時に、はじめての長編作品だったのできちんと絵コンテにならなかったんですよ。なのでパイロットと違っちゃったと思ったんですけど(笑)、やっぱり僕の力不足で一番最初にイメージしていたものとは違うものになったなぁと思います。そんな理由でしかないんですが・・・聞かれたくなかったですね(会場笑)。

質問G:自分は長野県出身で信濃毎日新聞のCMをとても好きで見てるんですが、こっちではまったく見ないんですけどCM制作とかはしないんですか。

新海:お話自体は時々いただくんですね。でも、どうも自分はタイミングが合わなくて、オファーいただいた時に新作を作ってたり海外に行ってたり、やりたいんですけどできないんです。CMって短い時間にぎゅっとメッセージを込められるし、場合によってはお金もいいんだろうし(笑)、今後機会がありましたらやっていきたいと思ってます。

信濃毎日新聞CMより

質問H:柴犬が金のタライに入っているんですが、ああいう風に犬を飼うんですか?

新海:『秒速』第二話にでてくる犬のことですね。僕は勝手にタライ犬って呼んでるんですけど、種子島に取材に行った時に実際ああいう犬がいたんです。カナエの家の設定にした近所の犬がいつも臆病でタライに入っていて、時々顔を上げて鳴いていて、それをそのまま使いました。

質問I:作品を作る時は、女性か男性、どちらの気持ちになって書くんですか?

新海:女性か男性かですか?難しいですね。基本的にはどうしても男性目線になっちゃってるとは思うんですけど、『秒速5センチメートル』のコスモナウトでは、タカキかカナエかでいうと完全にカナエ視点で物語を書きました。振ったことより振られることの方が多いですしね。でも、第一話の桜花抄では完全にタカキ側に自分を重ねて書きました。作品によって違いますね。
ちなみに『星を追う子ども』では、アスナに気持ちを重ねて書いていて、僕の子ども時代の部分を色濃く受け継いでいるキャラクターだと思うんです。それでも一番感情を込めて書いたのは、サブキャラクターのモリサキっていうおじさんがいるんですけど、奥さんを生き返らせようとしている彼に一番感情を移入しているかな。脚本を書いていて途中でつまってしまうと、モリサキ視点で回想した回顧録みたいな形で文章を構成し直して、それをもう1回脚本に戻すようにしてましたので、やっぱり男性の方が重ねやすいですね。僕が書く時は。

『秒速5センチメートル』 『星を追う子ども』

質問J:背景がいつもきれいでよく参考にさせていただいています。主人公たちの喪失感を背景であらわしていると思うんですが、監督自身もご経験がおありになるんですか?

新海:そういう経験はあると思います。たぶん皆さんも子どもの時とかに経験されてきたことだと思うんですけど、例えば学校で悩みがあった時とか、僕がよく覚えているのは高校時代に好きな子がいて、告白する前にその子が他の人と付き合っているのを知って告白できなかったことがあったんです。その日の夜空がものすごくきれいだったことを覚えているんですね。夏の空だったんですけど、田舎だったんでもう銀河が見えてですね。都会で育った方はご存じない方もいると思いますが、田舎の方だとちゃんと肉眼で天の川も見えるんですよ。そういう星空に見下ろされているような気がして、よくある視点の転換ですけど僕自身の短い人生のささやかな悩みも、もっと大きな引いた視点で見ると、「元気だそうよ」っていう気持ちになって風景に慰められてたことがたくさんあるんですね。
新作を公開したら逆に、ここ最近『秒速、秒速』って言われることが多くて(笑)、結構色々思い出してたんです。僕、大学で国文学を勉強していたんですが、そこで柄谷行人の「日本近代文学の起源」という古典みたいな有名な本なんですけど、「風景というのはとりたてて描写するようなものではなかったけど、背景を文章で描写するっていうのは発明だった」、「風景を発見したことで人は内面を発見して、内面の発見と風景の発見を可能にしたのは文体の確立だった」とあったんですね。昔は人はしゃべっている言葉と書いている言葉が違ったので、しゃべっている言葉で文章を書くことになったことと、風景の発見と内面の発見がパラレルに起こったという、僕は大学時代にこれを読んで、こんな風に世の中を捉えることができるんだと。例えば恋愛は明治期に海外から輸入されたみたいな言い方もされますが、そんな風に普段僕たちが当たり前だと思っている風景だとか恋愛っていうものには起源があるということを大学時代の勉強で改めて知って、すごく感銘を受けたことが今の自分のアニメーション表現につながっていると思います。

質問K:『秒速5センチメートル』第二話では、なぜ種子島が舞台になったのですか?ロケットを運んでいく時の時速5キロと関係がありますか?

新海:種子島ではロケットの打ち上げがあるからというのが大きな理由でした。コスモナウトの中で一番やりたいと思っていたことは、女の子と男の子が帰りにロケットの打ち上げを見て、女の子が「男の子の気持ちは私を見てはいないんだ」って気がつく話を作りたかったんですよ。それが実現できる日本の場所といったら、種子島しかなくって。九州でも打ち上げはあるみたいですけど、まぁ種子島だろうとロケハンを繰り返していたら、実はサーフィンのメッカであるとか、ロケットを運ぶトレーラーが時速5キロだという、いくつかの想定していなかったことを知ったりもして、それらを膨らませて今のスタイルになりました。

質問L:今回の新作は新海監督としては、はじめて制作委員会方式で制作されていると思うんですが、こういった方式をとられた理由と実際に制作されての感想をお聞かせ下さい。

MC:関わる人が多くなると、色んな人に観ていただける機会が多くなるというのがひとつの理由ですね。劇場も『秒速』の公開時は1館スタートでしたが、20館スタートになったりとプラスの展開があります。

新海:制作委員会方式で作っていて今までと少し違うと感じたのは、脚本の形でまずは出さなければいけなかったところです。今までは脚本として明確に作っていなくて、だいたいの文章は書いてそれを絵コンテにしていたのですけど、絵コンテにいく前に完全な脚本を作らなければいけなかった。それを委員会の方に読んでいただく必要があって、脚本補佐として松田沙也さんに入っていただき、一般的な脚本にしてもらいました。クリエイティブな面でのマイナスはまったくなかったです。「こういう方向転換もあったんじゃないか」と聞かれなくもないんですが、それは僕の中からでてきたものでこういうものになったということですね。


質問M:『秒速5センチメートル』は実在する舞台で物語が展開しますが、僕も岩船駅や種子島にも遊びに行きました。実際、作品を制作される際にファンがそういうところに行くこと想定して作ってるんですか、それとも予想外でしたか。

新海:たぶん考えてなかったと思います。『秒速』の第一話が小田急線沿線になったのは、僕が当時小田急線沿線に住んでいたのが大きいですし、種子島にしたのもロケットを打ち上げる場所だったというだけですから。そのあと、そこをめぐって写真を撮ってくださる方がでるというのは考えもしていなかったです。『秒速』を作り終えてからも参宮橋に住んでたんですけど、たまにカメラを持って写真を撮っている人がいて、もしかしたら『秒速』のファンかなって(会場笑)思ってちょっと顔を隠したりとか、そんなこともありましたがすごくうれしいことだと思ってます。
今回『星を追う子ども』では明確なロケハン場所がないんですね。長野県の佐久市小海町あたりをロケハンして写真はたくさん撮ったんですけど、そのままの場所っていうのがないので「ここに行けば聖地巡礼」ってのは言えなくてそこは残念だなって思ってます(笑)。

劇場キネカ大森の特別展示では『秒速~』ロケ地を訪れた写真が展示されていた。

質問N:『秒速』は他のアニメと見え方が違っていますが、くずれた原画の線を生かしたのはなぜですか。

新海:僕はアニメーターの描いた絵を見た時に、原画が美しいなって思ったんですね。原画ってその人の個性がでて鉛筆の強弱とか抜き具合とか生の迫力があったんですね。それを動画にする時に、色をはみ出さずに塗るために均一の線で全部線をつなぐわけなんです。そうなっちゃうときれいな画面にはなるんですが、どうしても製品っぽい感じになっちゃうなぁとずっと思っていて、「デジタルでやってるんだから、鉛筆の生の線そのまま使えるんじゃないの」と思って『秒速』でそのやり方をやったんですね。
ただ手間が結構かかったんですよ。通常のアニメが均一の線にしているのには合理的な理由があって、ペイントっていう色を塗る作業が早くなるんですね。でもそんなやり方にしたので仕上げを外注することができず、インターンの学生さんとかアルバイトの学生さんとかが合宿状態で、皆泊り込んで1枚1枚塗ってくれました。それはそれで楽しい思い出なんですが、次はなかなかできないなっていう感じでした。

質問O:『雲のむこう』で青森が舞台だったのは、テーマやこだわりがあって舞台にしたのですか?

新海:もともと舞台設定が北海道と本州で国が分断されているという設定だったので、青森にしたというのもあるんですが、もうひとつの理由としては、僕が学生時代の一人旅で青森の津軽半島の蟹田のあたりとか津軽線のあたりに行ったことがあって、すごくいいところだなぁって思ったんですよね。あんまり人がいなくて不思議な感じで昼間歩いていると、若い人がいなくておじいちゃんと子どもだけっていう、風景もすごく印象的でしたのでここを舞台にアニメーションを作ろうと思いました。

 

『雲のむこう、約束の場所』

質問P:色々な場所を見てきていると思うのですが、その中でここを舞台にアニメーションを作りたいと思う場所はありますか?

新海:どこに行ってもきれいだと思うのですが、例えばこの前舞台挨拶で行った名古屋の少し雑多な商店街とかもいいなぁって思ったし、あと徳島もイベントで行ったんですけどシャッター商店街にアニメの曲がずっとかかっていて、そこで人がジョギングしていてそんな絵もいいなって思いました。
一番これを絵にできればと思っているのは、『秒速』を作り終えたときに中東に何ヶ国か行ったのですが、ヨルダンの首都アンマンってあるんですね。7つの丘があって、その丘にへばりつくような感じで石造りの家がたくさん並んでるという風景がすごく美しくて、丘にできているから坂の多い町なんですね。で、ローマ時代からのコロッセウムの遺跡とかも生活に溶け込んでいて、海外の話ではありますがアンマンなんかはアニメーションの絵にしたらきれいかなって思ってます。

質問Q:“ロマンチックラブ”を否定するキッカケになった出来事や、そういう作品を作るときにインスパイアされた作品とライバル作品、今気になっている作品があったらお教えください。

新海:キッカケになった出来事で言えば、あんまり僕がモテなかったということなんですかね(笑)。僕がもし初恋の人と結婚とかしてれば、こういう作品は作らなかったんじゃないかなぁって思います。まぁ世の中、初恋の人と結ばれる人の方が圧倒的に少ないわけで、であるならば、“ロマンチックラブ”じゃない作品を作るってことは他の人にとっては何らかの救いになるんじゃないかって思ったんですね。基本的にジブリ作品って“ロマンチックラブ”を強く肯定するタイプの作品だと思うんですよ。僕もすごく好きなんですよ、観て励まされたりしたこともたくさんあるし。それでも日本で一番大きなとても影響力のあるアニメーションスタジオが、ものすごいクオリティーで“ロマンチックラブ”を強く肯定する作品をずっと作り続けている。「雫、結婚しよう!」とかね(会場笑)。それはそれで言葉どおりロマンチックなことではあるけど、そのことによって「こう生きなければならないんじゃないか」って思う人がいるんだったら、それは結構きついことなんじゃないかなって思うんです。
気持ちが通じ合うっていうのは大切なことなんですけど、でも通じ合ってそこで人生が終わるわけではなく、そのあともすれ違いとかどうしたって出てくる。それをどうやって乗り越えていくか、通じ合ったと思ったけどダメになってしまって、それでも生きていかなければならないってことの方が長期的に見た時に人生では大事だと思うんです。そんなこともあって、僕は今回『星を追う子ども』でジブリ的な入りやすい入り口として絵を作って、でも出て行く場所は違う作品にしようと思って作りました。

『星を追う子ども』

MC:最後にメッセージをいただけますか。

新海:そうですね。ひとつ言っておかなきゃまずいのかなぁって思うのは、今日は色々なお話をしましたが、僕はジブリは嫌いじゃなくって大好きだってことですね(会場笑)。今日、『秒速』を観ていただいた上で『星を追う子ども』を観ていただくのであれば、『星を追う子ども』にモリサキという男がでてくるんですけども、それは少し別の人生を歩んだタカキだと思って観ていただけるとまた違った見方ができるのかなと思います。アカリとうまくいったタカキが、アカリを亡くしてしまった。そのとき彼がどうしたのかっていう作品として観てもらうこともできると思います。少しでも楽しんでいただければうれしいです。

(2011年5月12日 キネカ大森)

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