目 次

新海 誠(監督)インタビューコメント3
新海 誠(監督)インタビューコメント2
新海 誠(監督)インタビューコメント1
#26 キノコ・タケノコ(コミックス・ウェーブ・フィルム 制作進行)
#25 木田 昌美(キャスティング ネルケプランニング)
#24 三木 陽子(色彩設計補佐・撮影)・市川 愛理(撮影)
#23 松田 沙也(脚本協力)
#22 李 周美(撮影チーフ)
#21 真野 鈴子・玉腰 悦子・中嶋 智子(動画検査・動画)
#20 木曽 由香里・鮫島 康輔・釼持 耕平(アンサー・スタジオ 制作)
#19 箕輪 ひろこ・田澤 潮(原画・作画監督補佐)
#18 三ツ矢 雄二(アフレコ演出)
#17 渡邉 丞・滝口 比呂志・泉谷 かおり(美術)
#16 池添 巳春・本田 小百合・青木 あゆみ(美術)
#15 中田 博文・岸野 美智・岩崎 たいすけ(原画)
#14 竹内 良貴(CGチーフ)
#13 肥田 文(編集)
#12 多田彰文(編曲・アレンジ)
#11 熊木杏里(主題歌)
#10 粟津順・河合完治(撮影、CG)
#09 野本有香(色指定・検査)
#08 廣澤晃・馬島亮子(美術)
#07 土屋堅一(作画監督)
#06 天門(音楽)
#05 丹治 匠(美術監督)
#04 西村貴世(作画監督・キャラクターデザイン)
#03 井上和彦(声の出演)
#02 入野自由(声の出演)
#01 金元寿子(声の出演)

土屋 堅一(つちや けんいち)『星を追う子ども』作画監督 #07

【プロフィール
1967年神奈川県生まれ。スタジオあんなぷる、ウォルト・ディズニー・アニメーション・ジャパンを経て、現在、アンサー・スタジオでメインアニメーターとして、作画監督や原画を務めている。主な作品は『ティガームービー プーさんの贈りもの』『くまのプーさん ザ・ムービー はじめまして、ランピー!』等。
新海作品には本作が初参加。アンサー・スタジオ担当分の作画監督と原画を務めた。

1か月間、毎日、これまでの作品を見て新海監督らしさを研究

■今回の作品に参加されたきっかけは。

土屋
「以前、アンサー・スタジオが別の作品で伊藤さん(プロデューサー)と一緒に仕事したことがあり、そのご縁で『星を追う子ども』に参加することになりました。アンサー・スタジオからは僕も含めて7人が、今作品の原画を描いています。僕はアンサー・スタジオの作画分の作画監督として、各原画スタッフのレイアウトや原画をチェックするという仕事でした。」

■土屋さんは今回初めて新海監督と一緒にお仕事をされたということですが、これまで新海さんの作品は見たことがありましたか。

土屋
「だいぶ前に『ほしのこえ』は見たことがあって、「すごい人がいるなあ」と思ったんですが、『雲のむこう、約束の場所』や『秒速5センチメートル』は見ていませんでした。ディズニーで仕事をしていた当時、日本のアニメーション作品ってあんまり見てなかったんです。なので、新海さんのこともよく知りませんでした。でも今回『星を追う子ども』に携わることが決まって、新海さんという人がどういうことを求める人なのか研究しておこうと思い、『雲~』と『秒速~』を初めて見たんですけど、「うわっ、これはすごい!いい!」と本当に驚きました。アニメーションに対して求めているものが他の人とは全然違うな、という感じがしました。それから1か月間、毎日『ほしのこえ』『雲~』『秒速~』を見ていました。」

■えっ、毎日ですか!

土屋
「はい。といっても、毎日3本いっぺんにはさすがに大変なので(笑)1日1本ずつローテーションで。本当に気に入ったんですよ。『秒速~』のちょっと地味めな感じの生活芝居とか。僕の好みだったんです。「ああ、こういうのを作る人なんだなー」と思って『星を追う子ども』の絵コンテを受け取ってみたら……「なにこれ!今までの作品と全然違うじゃん!」ってビックリ(笑)。僕、新海さんといえば「モノローグの人」だと思っていたんですよ(笑)。そういうスタイルで作る人なんだな、と。でも今回はキャラクターは動きまくってるし、生活芝居もあるけどそれに負けじとアクションシーン盛りだくさんだし。とにかく新しいことづくめですね。でも、仕事をやっているうちに、「あ、スタイルは変わったけど、新海さんらしさは変わっていないな」と感じるようになりました。」

■土屋さんから見た新海さんらしさとは。

土屋
「なんていうか……「えっ、ここまで正直に語っちゃうの!?」っていうぐらい、人の内面、気持ちや感情を、ドッとさらけ出してしまう表現は、ちょっと他の人の作品では見られないものだと思いますね。あからさまというか、あけすけというか……言葉であらわすのはすごく難しいんですけど。普通なら、もうちょっと隠したりとかぼやかしたりするものだと思うんですよ、そういうものって。「なんとなくそうなんじゃないかなあ」と感じさせる程度にぼやっと表現したり。でも、そういう心の内側の小さな揺れなんかも、新海さんはごまかさずに伝えようとする。実は、今だから言えることですけど、『星を追う子ども』の絵コンテを最初に読んだとき、「うわっ、ちょっとこれ、恥ずかしいな」っていう思いもあったんです(笑)。新海さんの、ドンッとまっすぐにこちら側に向かってくる気持ちの表現が、なんだかすごく恥ずかしくて。でも、仕事をしているうちに、「ああそうか、こんなにもまっすぐだからこそ、新海さんの作品は多くの人に伝わるんだな」とわかってきました。」

新海監督のやりたいことは、絵コンテに全部描いてある

■土屋さんのお仕事は具体的にはどういった工程ですか。

土屋
「まず、新海監督と各原画スタッフと僕とで絵コンテをもとに打ち合わせをした後、原画スタッフがレイアウトを切ったら、いったん僕がチェックしてから新海さんにお渡しします。それを監督が見て、作画監督の西村さんが監督の意向を汲んで手を入れたものが戻ってきたら、そこからようやく原画作業が始まります。」

■どういったところに気をつけてチェックしてらっしゃるのですか。

「レイアウトと絵コンテを見比べて、新海さんが絵コンテで要求しているものをレイアウトで満たしているか、なにか不足しているところはないか、という点ですね。各スタッフから原画が上がってきたときも、レイアウトと同様、いったん僕が見ます。原画と絵コンテを見比べて、なにか落ち度がないか、ちゃんと西村さんが設定した通りのキャラクターになっているかチェックします。それを新海さんにお渡しして、監督と西村さんの修正指示が入ります。そして動画作業へ……という流れです。」


監督による絵コンテ


土屋さんによるキャラクターの動き参考。
  監督のコンテにある「重そうに」という指示に対し、
  「ストレッチさせます。重さの表現に必要な絵です」の土屋さんコメント

 

■普通の作画工程に比べると一工程多いのですね。

土屋
「そうですね。通常のスタイルだと、原画スタッフが描いた絵はそのまま演出家のところにいって、それから作画監督がチェックしますからね。でも今回は、アンサー・スタジオと新海さんのいるCWFのスタジオがけっこう離れていたということもあり(※アンサーは西荻窪、CWFは麹町)、より効率よく作業をすすめるにはどうしたらよいかを考えて、この制作手順になりました。」

■特殊な進め方で、とまどいはありませんでしたか。

土屋
「いいえ、新海さんが求めているものが絵コンテから非常に明確にわかるので、悩んだり迷ったりすることはあまりありませんでした。絵コンテそのものが本当によくできていて、仕事はとてもやりやすかったですよ。絵コンテを読んで「新海監督はこういう絵がほしいんだろうな」っていう絵にできるかぎり近づけていく。極端に言うと、僕がやった仕事というのはただそれだけなんです。新海さんの絵コンテ通りにやっているだけ。やりたいことがはっきり見える絵コンテでしたから、ただそれを実現させるためだけにスタッフは努力すればいい。ただ、ほしい絵はわかっているけど、実力が伴わなかったり時間がかかったりして、そこになかなか近づけられない、っていう悩みのほうが大きかったですね。でもとにかく、僕も原画スタッフも、新海さんがやりたいと思っていることはみんなわかっていました。それぐらい読み手に伝わってくるすばらしい絵コンテでした。」


監督による絵コンテ


土屋さんによるレイアウト修正。


完成カット

 

アニメーション科に入学したのにアニメを描かせてもらえない学生時代

■もともと土屋さんは子どものころからアニメが好きだったんですか。

土屋
「小学生の頃はマンガ、藤子不二雄が好きでしたね。中学生になってからアニメを意識的に見るようになりました。それまではなんとなく作品という外枠で見ていたんですが、だんだん「このアニメのこのシーンの絵はなんだか他と違うぞ」と気づくようになったんです。それで、アニメ雑誌などを読んで「あっ、これは○○さんという人が描いているのか。じゃあ○○さんの次の作品も見なきゃ」というような見方になりました。」

■1967年生まれということは、ちょうどガンダム世代なのでは?

土屋
「そうですね、ちょうど中学のころにガンダムが流行っていました。でも僕はあんまり詳しくないんですよ。いちおうテレビで見て、プラモデルもみんな作ってるから僕も2、3コ作ったかな、という程度ですね。あんまりロボットものとかは自分の好みではなくて、やっぱり、どちらかというと出崎統さんが作るような、人間を描いているアニメ、ヒューマンかつスタイリッシュな感じのする作品が自分の趣味に合いました。『劇場版 エースをねらえ!』や『あしたのジョー2』など、出崎さんが演出で杉野昭夫さんが作画監督の作品に大きな感銘を受けましたね。そして、アニメーションの仕事を志し、高校を卒業後、東京デザイナー学院という専門学校のアニメーション科に入学しました。」

■どのような勉強をなさったんですか。

土屋
「アニメーション科なのに、最初の半年間はアニメーションの勉強をやらせてもらえないんですよ。デッサンとか空間デザインとか色彩とか、そういう勉強ばっかりで。すごく厳しい野球部みたいな感じですね。「まだボールは握らせないぞ!」みたいな(笑)。2年制の学校なのに半年もアニメを描けないわけですから、みんなうずうずしてましたね。「早くアニメやりたい、やりたい!」って。そうやって入学から半年うずうずさせて、秋からそのやる気を爆発させるんですね。学校側としては、そういうつもりだったんだろうなと思います。だけどやっぱり勉強にはなりましたよ。そういう基礎的なことは、無理矢理にでもやらないと身につかないでしょう。とにかくいろいろやりましたね。「こんなことが本当に役に立つのかな」って思うようなこともありました。分度器と定規を使って建築図面からパース画をおこしたり。しかも、みんなちょっとずつ自分流のやり方でやるもんだから、本当なら全員同じパース画にならなくちゃいけないのに、できあがってみたら全然違っていたりして(笑)。」

■そして半年後、いよいよアニメーションの勉強が始まるわけですね。

土屋
「ええ。といっても、起承転結のストーリーを考えて……とかそういうテレビアニメみたいなことは、授業ではあまりやらなかったですね。とにかく基本的な動きの勉強が中心でした。たとえば、人の歩きとか、動物の足はこびとか、そういったものの動きの仕組みをどうとらえてアニメーションとして表現するかというような勉強ですね。そういう勉強を1年間やって、2年目の夏前ぐらいから卒業制作作品に取り組み始めました。」

■どのような作品だったんですか。

土屋
「卒業制作はグループで作ったんですが、妖精が出てきて兄弟を部屋の中から外に出して、ちょっと森の中で冒険、というようなお話です。『ピーター・パン』のパクリみたいな感じですね(笑)。そのころからディズニーに傾倒していたんだと思います。絵コンテは僕が描いたんですが、誰が監督をやるかというような役割分担は特に決めずに、グループのメンバーみんなでだーっと作っちゃおう、というような感じで作りました。だけどやっぱりグループで作る難しさというか、みんながみんな同じ趣味というわけではないし、同じ方向を向いてるわけでもないので、いろんなスタイルの絵や動きがいっぱい入ってきちゃって、いちおうストーリーはつながってるけどぐちゃぐちゃでしたね。完成した作品を見ると、特に僕ひとりだけおかしいんですよ。」

■おかしい?

土屋
「みんなと比べて、自分が描いたキャラクターの動きのスタイルが明らかに違うんです。僕ひとりだけ、ストレッチ・スクオッシュ(キャラクターがゴムのように伸びたり潰れたりする動き)をやってるんですよ。やっぱりああいった表現が僕は好きだったんですね。メカとかロボットよりもストレッチ・スクオッシュの動きのほうが描いていて気持ちよかったんだろうと思います。」

あこがれの「スタジオあんなぷる」でプロ第一歩をふみだす

■専門学校を卒業後、どのようにしてアニメーション業界に入られたのですか。

土屋
「当時、僕は「スタジオあんなぷる」というところに入りたいと思っていたんです。そこは出崎さんと杉野さんが作られたスタジオで、当時から天才集団として知られていたし、あんなぷる出身のアニメーターも本当にすごい名だたる方々ばかり。だから、「まあ、無理だろう」と思いつつも、スタジオの電話番号を調べて「そちらで雇っていただけませんか」と電話をかけたんです。そうしたら、たまたま机が一つ空くから面接しましょう、ということになり、自分の作品を持ってスタジオにいきました。」

■おお!では、卒業制作作品を持っていかれたんですか。

土屋
「いや、卒業制作はとても見せられないので(笑)、スケッチブックを持っていきました。最初に杉野さんに見ていただいて、1週間後くらいにまたスタジオにいって出崎さんに面接していただきました。」

■緊張なさいましたか。

土屋
「そりゃもう、汗だくですよ(笑)。やはり自分にとって出崎さんはあこがれというか、スター的な存在でしたからね。面接のときも「うわー、アニメ雑誌で見た通りだ、やっぱり髪の毛が長いなー!」とかそんなことを考えてました(笑)。それで、面接のあとに「じゃあ、来週から来て」と言われて「えええ、来週!?」ってビックリしました。」

■心の準備をする間もなく、あこがれのスタジオに入られたのですね。

土屋
「そうですね。杉野さんとは毎日ずっと一緒でしたが、出崎さんは自宅で作業なさってて、年に4、5回くらいしかスタジオにいらっしゃらないんです。なので、お話もあまりできなかったですね。でももし今会ったとしても、やっぱり緊張してしまって何も話せないんじゃないかと思います(笑)。」

■あんなぷるには何年いらっしゃったんですか。

土屋
「5年ですね。2年近く続いていたテレビシリーズの仕事が一区切りついたころ、ディズニーが2、3年前に日本でもスタジオ(ウォルト・ディズニー・アニメーション・ジャパン)を作っていたことを知ったんです。「だったら、前から好きだったディズニーで仕事したい」と思い、入社しました。」

■ディズニー・ジャパンではどういったお仕事が多かったですか。

土屋
「いろいろやりましたが、「くまのプーさん」の仕事が来るとメインでやらせていただきました。劇場版『ティガー・ムービー』や『くまのプーさん ザ・ムービー はじめまして、ランピー!』などです。僕はいちおうアニメーションディレクターという肩書きがついていました。しかし2004年にディズニー・ジャパンが閉鎖されることになり、2004年にアンサー・スタジオを設立して、もともといたアニメーターたちの多くがアンサー・スタジオに所属して現在仕事をしています。」

■ディズニー・ジャパン時代に土屋さんと西村さんは一緒に仕事をしてらしたんですよね。

土屋
「ええ、同じ時期に同じ作品の仕事をしていました。今回、西村さんがいてくださって本当に心強かったですね。離れたスタジオで作業していても、「僕のあとにもう1回西村さんが見てくれるんだから大丈夫!」っていう安心感がありました。そういう意味でも、西村さんのおかげで、今回はずいぶん自由にやらせていただいたなと感じています。」

なにげない動作に対する鋭い観察眼が、新海さんの絵の説得力につながっている

■今回初めて新海監督と一緒にお仕事されて、どういった印象をお持ちになられましたか。

土屋
「すごく仕事しやすいなあって思いましたね。新海監督と僕の好みが近いのかもしれません。新海さんは、きちんと人間の動作を観察して研究して、生活芝居を丹念に描いている。絵コンテの絵を見ると、それがすごく伝わってくるんですね。だから、人の動きやポーズなど一つ一つに説得力があって、「たしかに、人って、そうだよな」と納得できるんです。「そうそう、人が立ち上がるときのポーズって確かにこうだよな」っていうポーズが絵コンテに描いてある。新海さんのコンテはすごく研究して描いているように僕には見えます。だからこそ、僕が考えるべきことはすごくシンプルなんです。絵コンテの絵をアニメーションの絵にする。ただそれだけです。」

■新海さんからの演出の指示は細かいですか。

土屋
「細かいというよりも、丁寧ですね。修正指示に関しても、文章で書かれてあったり絵で説明してくださっていたり、とても丁寧でわかりやすかったので、それもまた非常に作業しやすかったです。」

■それでは最後に、土屋さんから見た『星を追う子ども』のみどころを教えてください。

土屋
「えーっと……全部です(笑)。クライマックスシーンの原画は僕が担当させていただいたので、新海さんの絵コンテに込められた気持ちを、自分なりに丁寧に描きました。その気持ちが見てくださる方に伝わるといいなと思います。ぜひ劇場でごらんください。」


土屋さんが自ら原画担当したカットのレイアウト。

 

【インタビュー日 2011年2月9日
  聞き手・構成:『星を追う子ども』宣伝スタッフ 三坂知絵子】

次回のインタビューは、美術の廣澤晃さん、馬島亮子さんです!

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